本ができました

制作をお手伝いした本
『つなぐ心、つなぐ技。−朝日焼の四百年』
が完成しました。
いよいよ本屋さんの店頭に並ぶそうです。

宇治には400年伝わる朝日焼という窯元があり
代々、宇治川が運んだ地元の土をつかい、登り窯で作陶しておられます。
初代が小堀遠州とゆかり深かったため
遠州七窯のうちのひとつに数えられている古窯です。
この本は、そんなやきものの家に生まれ、作陶に人生をかけた15世豊斎先生の随筆集です。

本の巻頭には写真家の吉田亮人さんが撮った先生の写真が並んでいます。
懐かしいお姿に嬉しくなって
「先生! 本ができましたよーー!」
と、写真の先生に向かって思わず声をかけました。

この本の仕事が始まったのは去年の5月。
先生のお話を聞いてわたしが草稿にまとめ
それをたたき台に先生が加筆や修正をされて
1年くらいかけて完成させよう
というスケジュールでした。

先生は癌を患っておられて、余命3年といわれており
将来生まれてくるお孫さんと一緒に仕事はできないので
「孫のためにこの本を残したい」と出版を決断されたのです。

ところが、仕事が始まって1ケ月後の6月に癌の転移がみつかりました。
そのとき先生からいただいた電話を、今でもよく覚えています。

先生はいつものように快活な声で切りだされました。
「このままやと11月までの命といわれたんや」
そして、あまりのショックで言葉を失っているわたしに
こう続けられました。
「1年かけてつくろうっていうてたけど、もう時間がない。
どうや、1ケ月半で進めることはできひんか?」

突然のお話にものすごく動揺しながらも
一方で胸打たれている自分がいました。
もう無理だから出版は諦めるよ、とおっしゃっても仕方のない状況にもかかわらず
決して諦めない先生の姿勢に、です。

単行本なので200ページは書かなければなりません。
先生が加筆修正するためにももう少し多いほうが良いでしょう。
他の仕事だってもちろん抱えているので
先生の要望はかなり無茶な内容でした。
それでもわたしは即答していました。
「先生、わたしはこのお仕事の責任の重大さを理解しているつもりです。
そこにもうひとつミッションが加わったわけですよね。
わかりました。精一杯頑張ってみます」

正直なところ電話の向こうの先生は相変わらずとてもお元気で快活で
まったく実感が持てなかったのも事実です。
癌の余命は人によっては外れることだってあるので
「そうはいっても先生はきっとあと何年も生きてくださるだろう」
と、そんなふうにたかを括っていた部分もあったかも知れません。

実はこの本はわたしにとっても大きなチャレンジでもありました。
今まで単行本といっても写真の多い実用書の仕事がほとんどで
すべてが文字で埋まった読み物を書くのは初めて。

そして、情けないことですが
やはり、なかなか予定通りには進みませんでした。

ふだんの仕事は長くても3000字程度の原稿量なのですが
それだと1ページ600字としても5ページにしかならない。
わたしはインタビューをまとめながら
今まで自分が取り組んでいたのがいわば「短距離走」
としての原稿書きだったことを痛感しました。
今取り組んでいるのは「長距離走」のようなもの。
似ているようで、全然違うのです。
本全体と章ごとの構成だけでも、身体も頭も相当に体力がいる。
毎日コツコツと同じペースでこなすことも必要になります。
村上春樹が何故マラソンをするのかが
分かる気がしました。

先生の本に集中するため
新しい仕事は極力入れないようにしましたが
それでもどうしても断れない仕事やレギュラーものは入ってきます。
この本も他の仕事もとにかくひたすら書くしかありませんので
ずっとパソコンに向かい続ける夏となりました。
徹夜で迎えた朝方にパソコンの電源が大きな音でショートして
デスクの前で悲鳴をあげたこともあったなあ……
途中で疲れてうたた寝してると先生が夢に出てきて
「どうや〜?」
と聞かれたことも……(飛び起きました!)。
このあたり、心理的にも体力的にも一番追い込まれていた頃のエピソード(笑)
何とも過酷な夏でした。

できた章から順次お送りして
結局すべてをお渡しできたのは、9月の上旬になりました。

お納めした頃の先生は
抗がん剤治療のかたわら、窯たき前の作陶に打ち込んでおられて
他にも京都陶磁器協会の理事長のお仕事があったり、お忙しそうでした。
そのあと体調が悪くなり入院したとベッドの上からお電話くださったのが10月半ば。
「ごめんな、しんどくてなかなかできひんのや」
「今は体調を戻されるのが一番大事なお仕事ですから
本のことはいったん忘れて療養してくださいね。
のんびりお待ちしてますから〜」
そんな風にかわした会話が最後となりました。

先生が旅立たれたと連絡をいただいたのは11月の下旬でした。
いらないプレッシャーをかけたらダメだと思い遠慮していたのですが
こんなことなら「体調どうですか?」とメールしたら良かった
お見舞いにいかせてもらったら良かった
と、後悔ばかりが先にたちます。

そして、約束を守れなかった自分の不甲斐なさに打ちのめされました。

約束通りに出せていたら
先生もまだお元気で修正や加筆作業に入れたかも知れません。
わたしの力不足で、間に合わなかった。
先生ごめんなさい。
とても悔しく情けなくて、たまりませんでした。

お通夜では、奥様と長男の佑典さんが
「最後まで気にしていましたよ。本は出しましょう」
とおっしゃってくださいました。
そして、実際に佑典さんが先生の代わりに、加筆と修正をしてくださり
この本が完成したのです。

正直いうと、わたしは「もう本にならなくてもいいな」
と思っていました。

この本をつくるにあたり
わたしは先生にたくさんの素晴らしいお話をうかがい
たくさんの気づきを得ました。
それはやきものづくりだけではなく
わたしの書くという営みにも等しく言えるようなことばかりで
学びの連続だったのです。
ものをつくること、技術をつないでいくということに関しては
いとへんuniverseの活動にも大きな影響を受けています。

わたしはやきものづくりを引き継ぐことはありませんが
先生の考え方や美学はしっかりと引き継いだと思います。
もうそれで充分すぎるくらいの成果をいただいている、
そんなふうに思っていました。

先生は文章にもこだわりがあり
美しい言葉をたくさん残しておられますので
本当は自分で書きたかったと思います。
事実「ほとんど書き直すつもりやで」とおっしゃっていたので
自分で手をいれないまま本になるのは
実はちょっと、いやかなり、不本意だろうと思います。

だからこそ、ここにこうして草稿をわたしが書いたことを
記したいと思いました。
「なんかちゃうねんなあ……僕が書いたらもっと美しい文章やったで」
って天国で絶対思ってはるし。
だけど「ま、しゃあないな」とも思っておられるでしょう。

この本を仕上げてくださった長男の佑典さんが
「16世当代として初めての窯をたくときに、父の言葉と向合えて良かったです」
とおっしゃってくださいました。
先生の遺作を息子さんが完成させて世に出すというのは
この本のテーマ「つなぐこと」をそのまま体現していて
とても感慨深いです。

もっとわたしに力があったなら
もっと先生と朝日焼の皆さんのお役にたてたかも知れない……
時間的にも内容的にも、これが今のわたしにできるすべてで
本になってしまったらもう諦めるしかありませんが、
忸怩たる思いは消えません。

この苦い後悔をずっと抱いて、これからも書いていこうと思います。
もっといい文章を、もっとスピードをあげて
たくさん、たくさん、書きたいです。

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2016-11-14 | Posted in Blog, おしごとComments Closed 

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